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○妙高市の市章が決定
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| ○デザインの趣旨 |
| 妙高市の頭文字の「M」をモチーフにして、妙高山をイメージし、三つの山で三市町村をあらわしました。また、全体として翼を広げた鳥が未来へ向かって羽ばたくイメージです。 |
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○最優秀作品の講評 |
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妙高市の頭文字「M」をデザインし、妙高山のイメージが分かりやすく、シンメトリー(左右対称で釣り合いがとれている)で表現されている。また、落ち着いた安定感があり、三市町村が連携し、未来へ向かってはばたくイメージが、シンプルなデザインで表現されています。 |
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| 平山郁夫選定委員長 |
作品選定を行う平山委員長 |
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○受賞者一覧 |
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受付順・敬称略)
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賞
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住 所
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氏 名
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最優秀賞
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東京都
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立志哲洋
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優秀賞
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新潟県上越市
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臼井 一郎
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長野県上田市
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三戸部 謙吉
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熊本県熊本市
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萱野 光俊
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長崎県諫早市
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田原 嗣晴
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| 地域の歴史を探るC |
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シリーズで紹介している地域の歴史と文化。第4回目は、関川の関所について探ってみましょう。 |
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| 厳しく通行を管理した「関川の関所」 |
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■江戸へ通じる北国街道
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北国街道は、江戸時代に幕府が整備した五街道に次ぐ重要な交通路として、五街道の一つ中山道の信濃追分から信越国境を経て関川・上原・田切・二俣・関山・松崎・二本木・荒井(新井)を通り高田・直江津・出雲崎へ通じる街道です。時代や地域によっては「信州街道」「善光寺街道」とも呼ばれ、佐渡から金を運ぶ輸送路とされていたため「御金荷街道」とも呼ばれていました。また、加賀藩など北陸諸大名の参勤交代の通路でもあったため重要なルートとされていました。
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■重き関所「関川の関所」 |
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江戸幕府は、人や物の移動を取り締まり、治安を保つため、街道に関所を設置しました。時代により多少の差はありますが、江戸中期には、全国五十三箇所に関所が設置され、その任務の重要性によって「重き関所」と「軽き関所」に分類されました。関川の関所は、佐渡の金を輸送するルートであったため「重き関所」とされ、関所の管理は、高田の藩主が幕府の指示によって直接管理を行い、藩の家臣を関所の責任者として派遣しました。
関川の関所がいつ設置されたかは不明ですが、寛永元年(一六二四)から始まる松平光長高田藩時代には、幕府の監督の下に高田藩が実際の管理を行っていたようです。延宝七年(一六七九)頃の「越州之市分限帳」によると、高田藩では百石取りの武士四人を関川番として任命しており、その他、足軽数人、近村の村役人などから選ばれた郷足軽十人が配置されました。また、女性の通行人を厳しく取り調べる「人見女」も配置されていたことから、幕府から重要視されていたことがうかがえます。 |
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■入り鉄砲に出女 |
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関所では、江戸に向かう鉄砲と江戸から出る女性が特に厳しく取り調べられました。江戸に向かう鉄砲は幕府老中発行の「鉄砲手形」が必要で、手形には種類・数量・所有者名・輸送の起点・終点などが明記されていました。また、当時、人質同然に江戸住まいを強要されていた地方大名の母や妻が江戸を出て国元へ帰ることは人質がいなくなり、その藩が幕府に対して、反乱を起こす疑いがあるとして、それを未然に防ぐため身分の高い女性ほど厳しく調べられ、特に詳しく書かれた「女手形」が必要でした。一方、普通の男性は通行自由で、庶民の男性も菩薩寺・庄屋が発行した往来手形で通ることができました。 |
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■関所の衰退
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関所は江戸幕府治安維持のために設けられ、三百年近く幕藩体制の平和を保つ役割を果たしてきましたが、交通や商業の発達の面からみると不便な面が多く、大名や町民の間からはしだいに関所廃止という気運が高まり、明治二年の関所廃止令により全国の関所は廃止されました。 |
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関所外見 |
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| ご意見、ご質問は新井市・妙高高原町・妙高村合併協議会または各市町村合併担当課までお寄せください。また、当ホームページでも合併協議会の内容などを掲載していますので、ご覧ください。 |
| 市町村合併担当課 |
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| 新井市 |
企画政策課 市町村合併対策室 |
電話 72-5111 |
| 妙高高原町 |
総務課 総務係 |
電話 86-3134 |
| 妙高村 |
企画観光課 企画係 |
電話 82-3111 |
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